今回は、自転車取材旅行でキューバへ!他にもいくつか候補地はあったのですが、「滅多に行ける所じゃないから。」とキューバを選択。しかし、乗り継ぎ場所のメキシコシティにたどり着く以前に、飛行機給油の為バンクーバー空港にて2時間軟禁状態に。
カナダに入国できない為決められた部屋から出られないのだ!そんな波瀾万丈の旅の幕開け。
いろいろなことに驚きっぱなしの旅となりました。
3月30日(木)
日本からキューバへの直行便がないため、メキシコシティで乗り継ぎ。それ以前、バンクーバー空港での窮屈な時間をなんとか過ごし、ようやくメキシコシティに到着しました。
標高2200mで空気が薄い為、ちょっと早足で歩いただけで息の切れるメキシコシティに一泊。
3月31日(金)
メキシカーナ航空でキューバへ。ハバナ空港に到着。人気が少ないことに驚く。そしてなんと空港の時計が5時間遅れ!そんな大胆さんの中、税関で自転車や工具が引っかかり、トランシーバーが没収される、という事態が!そんな厳しさも併せ持ったハバナ空港でした。
ホテルに着くなり、チェックインする前に自転車を組み立てる清志郎。チェックインの際、冷蔵庫の使用方法の説明を受けるも、冷蔵庫がなかったり部屋のドアが壊れていたり、キューバのホテル事情の一端を垣間見ました。
4月1日(土)
ハバナ市内の見所を巡る。まず向かったのは床屋。「せっかくだからキューバで散髪しよう。」と清志郎。なお、キューバでは床屋まで国営。長髪の男性の髪を切るのは初めて、といった感じの床屋のおじさん。珍しい光景に大人から子供まで見物人が集まる。仕上がりは・・・日本でいうところのおかっぱ?頭に。
その後観光スポットを幾つかまわったあと、午後はようやく自転車の撮影を。大きな木の根本に自転車を並べて撮影。少しだけ撮影をし、その後ハバナ・クラブ博物館へ。ハバナ・クラブとは、キューバ産のラム酒ブランド。その歴史や製造について知る施設。器械に触れたりと楽しそうな清志郎でした。
4月2日(日)
昼食のレストランで清志郎のアンテナに触れるものが。生演奏のバンドがいたのだが、ギター演奏者は3箇所にそれぞれ2本ずつという、変わった弦の張り方をしたギターを持っていた。キューバでももはや年配の人しか弾けない、珍しい演奏法らしい。
その後、また自転車の撮影。車も自転車も、馬もバナナの売り子も通行可能な高速道路を走り、取材は終了。
ディナーはホテルのレストランで。この日は清志郎の55回目の誕生日。ケーキ代わりのデザートが登場。大きなクッキーの上にメレンゲのホイップ、その周りをオレンジとスイカが飾り、なんとトマトで作られた薔薇が添えられている。そしてその上に“KIYO”の文字。奇妙なバースデーケーキに驚きつつも笑顔でロウソクの火を消す清志郎でした。
4月3日(月)
本日は朝からサイクリング。スクーターで伴走するサポーターの藤下さんと、カメラマンの方を連れ、スタート。辺りの風景は、牛を使って耕作していたり、タバコの畑があったりとのどかなもの。途中立ち寄った家は、そんなタバコ農家のひとつ。ここの一家は10人でこの3LDKほどの家に暮らしているのだという。軒先で老人がぼんやりとロッキングチェアに揺れている。清志郎が何事か話しかけると老人は微笑む。何を話していたのだろう?
この家の馬と犬と競争しながら再スタート。洞窟を利用したバーや、昼食の為にレストランに寄りながら、夕方前にはホテルに到着。その後はホテルの庭で、ストレッチや自転車のメンテナンスの様子を撮影して、本日終了。
4月4日(火)
本日は移動日。ビニャーレスからシエンフエゴスへ、約500kmのバスの旅。車窓を眺めていると、陸橋の影の下にたたずむ人達が目にとまる。ヒッチハイクをしているのだという。キューバではヒッチハイクはメジャーな移動手段なのだそうだ。ヒッチハイクで通勤する人も少なくないと聞き、驚く。
到着地、シエンフエゴスは世界遺産の町。古い建物が残っている。文化や伝統、というより、単に経済的に建て替えられないから、という感じを受ける。道路にはびっくりするような大穴が開いていた。
4月5日(水)
本日は港での撮影から。錆びた古い船、蟹を捕る数人の若い男、どことなく寂しい風景。
シエンフエゴスの町中へ。車の通行はほとんどないものの、人や荷物を積んだ馬車の姿に、清志郎も思わず足を止めて眺めている。
両側にマンゴーのプランテーションを見つつ、路面の悪い道を走っていると、地元の自転車レーサーとすれ違う。しばらくすると戻ってきて、清志郎に話しかけるレーサー。4~5kmを共に走り終え、会話を始める二人。特に地元レーサーの彼は、清志郎の自転車に羨望の眼差しを注いでいる。無理もない。日本のレーサーが見ても垂涎もののオレンジ号、物資の入手がままならないキューバのレーサーからしてみれば・・・。
お金があれば手に入る、とかそういう問題ではないのだ。自転車を交換し、互いに試し乗りする。本当にうれしそうな顔を見せる地元レーサー。最後は笑い合い、握手を交して別れた。
空腹を抱え、昼食のためのレストランをようやく探し当てる。何があるかと尋ねて差し出されたのは、トレイにいっぱいのロブスター、エビに生肉。軽くランチを、との気持ちだったのに、思わず絶句する。この暑い中での生ものへの不安と、調理に一時間も要するとのことで、仕方なくオレンジジュースが昼食となる。
いよいよカリブ海が見えてくる。そしてここもまた世界遺産の町、パステルカラーの建物が建ち並ぶ、トリニダーに入る。トリニダーは石畳も有名なところで、自転車にとってはすこぶる走りにくそうだ。清志郎は転倒もなく無事に110kmを走りきった。
4月6日(木)
朝9時半にホテルを出発。本日の自転車コースは、ずっと登り、角度もきつく蛇行したり登り坂という過酷なコース。さすがの清志郎もバテ気味だったよう。
キューバの自転車人気は国民的なものらしく、どこの街を訪れてもオレンジ号にまたがる清志郎は注目の的であった。
途中立ち止まったりもしながらも、山頂へ到着。疲弊しきった体に、藤下さんがマッサージとストレッチを施してくれる。ここTopes de Collantesは有名な観光地でもあるらしい。
ここからは車で移動。今日はホテルで用意してもらったサンドイッチを持参したので、きれいな庭を見つけ、そこに腰を下ろしての昼食。おのおの包みを開き食べ始めると、それぞれ中身が違うことが判明。トマトとレタスのみのサンドイッチがあたった清志郎は満たされない様子であった。しかしここの庭、コーディネーターの方は「ホテルの庭だ」というが、建物の作りからすると、どうやら病院の庭でランチしてしまったらしい。
自転車を組んでリスタート。木や農耕地、簡素な小屋が目に付くのどかな丘陵地を抜けて、高速道路へ。目の前の道路がやたらと広いのだが、これは有事に滑走路として使用できるようにとのこと。滞在しているうちに、この国には二つの面、陽気で人なつこい面と、物騒な面とがあることを実感するようになった。今まで走ってきた高速道路は路面もひどく荒れていたのに、ここだけ広く整備された道路を見ると、一筋縄ではいかない国であると改めて思う。
本日のゴールはサンタクララのホテル。これまでに滞在したホテルの従業員が比較的おおらかであったのに対し、ここのマネージャーの度を越した熱心さに圧倒される。事前に「日本のロックスター」と聞かされての振る舞いらしい。レストランでも従業員が入れ替わり立ち替わり挨拶にやってきて、まったく落ち着かない夕餉であった。
4月7日(金)
朝、ホテルの庭を散歩していたら、係の人が馬の準備を整えている。係の人は「予約していた乗り手が来ないから、代わりに乗らないか」と言う(真相は、係の人が遅刻してしまい、予約者が乗馬を諦めたらしい)。「じゃぁ、乗るか」と清志郎。手綱まで自分で持って普通に乗れている。けっこう楽しそうだ。
本日も、真夏の気温の中サイクリングへ。高速道路を走り、オレンジ畑の間を走る。途中、自転車のモニュメントが出迎える街、カルデナスを通過。この町は蟹の漁のおかげで裕福なのだそうだ。整った家並み、自転車に乗り、ギターなんかを背負っている人、住人の服装などからもそれがうかがえる。もちろん道路に穴も開いておらず、確かにキューバの他の街とは違う表情の街だった。
本日の滞在は外国人のためのリゾート地、カリブ海に細く伸びる半島、バラデロ。立派な外観のホテルが並ぶ、外国人のためのリゾート地だ。この半島自体に勤務している以外の自国人は立ち入ることができないのだというのだから徹底している。キューバに革命が起こり、社会主義国家となる以前には、アメリカ人資産家たちのリゾートだったという場所だ。
4月8日(土)
本日いよいよサイクリングの最終日。ゴールは革命広場。ものものしく大勢の警官が配備されている中、清志郎の到着を待つ。道路の向こう側にサポートカーを従えた清志郎の姿が現れた。ついに「ゴール!」というところで、警官からサポートカーにストップが。サポートカーにはカメラマンも乗っていたのだが、警官は撮影に関してひどくピリピリしていて、カメラを向けられたことに対しての処置のよう。厳しく聴取される。しかし自転車の清志郎は声をかけられうことなく通過、そのまま革命広場に滑り込む。そびえ立つ、ホセ・マルティ記念博物館の前に止まり、一度周囲を眺めてから、笑顔をこちらに向ける。約430kmを走り、ここに清志郎のツール・ド・キューバは無事にゴールを迎えた。
その晩は、ヘミングウェイが通ったという伝統あるレストラン、ラ・フロリディータへ。重厚な内装の店内、ヘミングウェイの指定席であったというカウンターの一番端にはヘミングウェイの銅像が置かれている。そんな食事の後であったが、清志郎はいよいよ日本の味が懐かしくなったらしく、ホテルに戻るとレトルトカレーをリクエスト。洗面台にためた水を電熱器で沸かしてクッキング。夜食にしていた。
4月9日(日)
キューバのミュージシャン、カルロス・エクス・アルファンソを尋ねる。彼はキューバの大きな音楽賞を受賞している、キューバでは有名な人気ミュージシャンだ。両親ともミュージシャンという音楽一家に育ったのだそう。部屋に案内されると、絵や植物が飾られ、大きなテレビやコンピューターまで揃った、非常に豊かな生活ぶり。こんな暮らしをしている人もいるのだと、また新たなキューバの一面を見た気持ちになる。コンピューターの前に清志郎を導いて、自身の音楽活動についての話をしてくれるアルフォンソ。今度は清志郎の音楽活動についてアルフォンソに説明する。取り出したのはライブDVD『WANTED』。緊張の面持ちだったアルフォンソだったが、DVDを観ているうちにだんだんとそれが解けていったよう。非常に面白く観てくれて、とりわけ初めて耳にする「日本語のロック」の言葉の乗せ方に感銘を受けたとのこと。取材に来ていた読売新聞キューバ支局の記者との話を終え、テラスに場所を移した頃にはもうすっかりリラックスした様子。そこで聞いたところによると、キューバ在住の日本人の友人に「忌野清志郎というミュージシャンに会う」と話したらたいそう驚かれた為、そんなにスゴイ人が来るのかと、すっかり緊張してしまったのだそうだ。しかし音楽と、清志郎本人の姿がそんな思いを取り払ってしまったらしい。うち解けた笑顔で並ぶ清志郎とアルフォンソ。旅に出会いは付き物だが、これもまた貴重な出会いであった。
そしてまた過酷な帰路へ。メキシコシティに渡り、翌日はメキシコシティからまたバンクーバーでの給油を挟み、成田への17時間の飛行機の旅。日本と違う街や道、社会、様々な人達。やはり遠い国だったキューバ。それでもきっと、キューバの風景や出来事を懐かしく思い出すこともあるに違いない。